2007年1月30日 (火)「ローマ教皇とナチス」
| 本書は大澤武男の著作。 すでに数ヶ月前に呼んだ本だ。 ゛ヒトラーの教皇」と呼ばれたピオ12世についての論考。彼は、ローマ生まれのイタリア人でエウジニオ・パチェリと言う。1958年に死亡するが、戦後の10数年はこのナチ寄りの教皇を戴いていたことになる。本書は、このパチェリの軌跡を丹念に追ったものである。ローマに生まれ、教皇庁のカプラニ神学学校に通い、教皇庁立グレゴリオ大学を卒業し、23で司祭に叙任し、24歳で教皇庁に招聘された、生粋のエリートであった。ちなみに、彼の姪があのマリア・テレサである。 エウジニオ・パチェリは19世紀末の反ユダヤ主義の風潮の中にいたらしい。時の教皇レオ13世の下で、教皇庁内部で反ユダヤ主義の急先鋒であったのはイエズス会であった。 ところで、エウジニオ・パチェリをナチスに傾斜させた出来事として、1次大戦中の1917年に、ミュンヘン教皇大使の死去に伴うエウジニオ・パチェリのミュンヘン大使への就任がある。 エウジニオ・パチェリがいたミュンヘンでは、1918年に独立社民党のアイスナーがバイエルン社会主義共和国を宣言するし、ローザやリープクネヒトはソビエト型革命を主張する激動の中にあった。そこでエウジニオ・パチェリは当時シュヴァービンガー・ソビエトを名乗る赤軍兵士の活動に恐怖を覚えたに違いない。エウジニオ・パチェリは「残酷なユダヤ系ロシア人革命家の暴政」を激しく非難するようになる。そして29年に、ローマに帰任して教皇庁国務長官に就任する。 ミュンヘンやベルリンでの経験、それは、ナチスが活動を開始し成長していく過程でもあった。くしくもエウジニオ・パチェリはナチスとともにドイツの政治の風を受けたのであった。 | ||
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