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2008年3月 7日 (金)

2007年1月3日 (水)「日本人脈記・2」

朝日文庫に所収されている本書は、05年4月から朝日新聞に連載されたものを集めたものだ。
第1章「韓流の源流」について
とくに、僕が卒業してから清や池内・後村などと始めた朝鮮問題研究会(「流言蜚語」という会報を出していたが、やはり中心は清だった)とのかかわりでTK生著書は必読文献だった。池見観がTK生だったということは後で分かったことだ。その池は韓国の日本文化の開放政策(韓国では日本の歌も小説も映画も発禁だったのだった)を担う有力な政府関係者として活躍していたのだった。池は現在の日韓文化交流の担い手であり続けている。ところで、後の大統領で韓民統を率いた金大中と池を引き合わせたのは岩波社長の安江であった。金は、僕らがよく会議をしたトモンがあるトモンビルの右横のビルのマンションに潜んでいたのだった。そう考えると韓国の現在と歴史は僕らの歴史の中にリアリティを持って存在しているのだった。
第2章「ベトナムの戦場から」について。戦場カメラマンと戦場ジャーナリズムの源流としてのベトナムという位置づけからカメラマンなどの人のつながりを述べたもの。ここで、岡村昭彦の僕らの世代への影響力を思い出す。それはカメラマンたちにとっても同じことだ。岡村を通してベトナム戦争を知った人々は多いのだ。ちなみに、生前の岡村を早稲田の古本屋で見た事がある。インド大使館の向かいの古本屋だった。当たり前の話だが、ごく普通の太った中年だった。それはともかくとして、93年のニューヨークタイムズにある写真が載った。飢えて死の直前の幼児が頭を垂れて崩れ落ちようとしている、それを真後ろからハゲタカが狙っているという構図のものだ。写真を撮る以前になぜ助けないのか、との猛烈な批判を呼び起こしたものだ。それを写したケビン・カーターはピューリッアー賞を受賞した3ヵ月後に謎の自殺をした。
暖かい部屋で美味しい食事を取りながら、なぜその幼児を助けないのか、という批判はかくも安易に繰り出されるものだ。問題は、カメラマンの側にも個人的功名心があったとしても、そこに写し取られる厳然たる悲しい現実があるということを一義的に考えるべきだということだ。それをまずは出発点に据えるという心構えが必要なのだ。しかし、そのようになぜまずは助けないのだ、という批判をする者は、その批判する当の本人が、なぜその悲惨な事実を知らなかったのか、そしてなぜに批判をする今現在にその幼児を含む現実の救済に参加していないのかとまずは自問すべきなのだ。自分が現実に助けられないもどかしさを、写真として現実を切り取ったカメラマンへの批判を行うことで慰めてはいけない。
いずれにしても、この僕は岡村昭彦にも開高健にも沢田教一にもなれなかったが、彼らが、僕や僕らをベトナム反戦と社会の不正義の告発者への道行きへと誘った力の一つであったということは事実なのだ。その点でも僕や僕らは彼らと共に時代を生きたのだった。
でもこの僕は、今はイラクでの毎日の死にもスーダンの死にも迫りくるモガディシオの死にも、あるいは、毎年3万人の日本人の死にもなにも出来なく、またしてもいなく、傍観者であり続けている。
第3章は「『満州』の遺産」だ。ここでは棄民のことが重くのしかかってくる。その場合、満州で3スケとして辣腕を振るったアベチャンの尊敬する岸が首相になって2年後の59年に、「海外からの未帰還者に戦時死亡宣告をした」(松岡満寿雄氏言)と言う事実は忘れるべきではない。満州=中国東北部に多くの幼児、老人、子供たち、夫人という弱い人々が死の逃避行の中で死亡し、また置き去りにされたのだったが、たとえ彼らが中国で生きていても死亡したと戸籍上はみなすということだった。つまりは、残留孤児は岸によって2度目の棄民となったのだった。一度目は守ってくれるはずの関東軍の我先にの逃亡で捨てられ、2度目は以前は彼らの上に君臨していた岸によって捨てられたのだった。

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