2008年3月20日 (木)
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本書は大澤武男の著作。 すでに数ヶ月前に呼んだ本だ。 ゛ヒトラーの教皇」と呼ばれたピオ12世についての論考。彼は、ローマ生まれのイタリア人でエウジニオ・パチェリと言う。1958年に死亡するが、戦後の10数年はこのナチ寄りの教皇を戴いていたことになる。本書は、このパチェリの軌跡を丹念に追ったものである。ローマに生まれ、教皇庁のカプラニ神学学校に通い、教皇庁立グレゴリオ大学を卒業し、23で司祭に叙任し、24歳で教皇庁に招聘された、生粋のエリートであった。ちなみに、彼の姪があのマリア・テレサである。 エウジニオ・パチェリは19世紀末の反ユダヤ主義の風潮の中にいたらしい。時の教皇レオ13世の下で、教皇庁内部で反ユダヤ主義の急先鋒であったのはイエズス会であった。 ところで、エウジニオ・パチェリをナチスに傾斜させた出来事として、1次大戦中の1917年に、ミュンヘン教皇大使の死去に伴うエウジニオ・パチェリのミュンヘン大使への就任がある。 エウジニオ・パチェリがいたミュンヘンでは、1918年に独立社民党のアイスナーがバイエルン社会主義共和国を宣言するし、ローザやリープクネヒトはソビエト型革命を主張する激動の中にあった。そこでエウジニオ・パチェリは当時シュヴァービンガー・ソビエトを名乗る赤軍兵士の活動に恐怖を覚えたに違いない。エウジニオ・パチェリは「残酷なユダヤ系ロシア人革命家の暴政」を激しく非難するようになる。そして29年に、ローマに帰任して教皇庁国務長官に就任する。 ミュンヘンやベルリンでの経験、それは、ナチスが活動を開始し成長していく過程でもあった。くしくもエウジニオ・パチェリはナチスとともにドイツの政治の風を受けたのであった。 |
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池口恵観法主という宗教家を知っているだろうか。前年9月の週刊文春に我らがアベチャンと池口恵観との親密な関係の記事が載った。この池口には野球の清原や金本も信奉しているらしい。 ちなみに、池口が発表している前年8月発表の日本救国論」49には、天皇を始めとした多くの国民の靖国参拝の日が来るように祈るものであった。 興味のある方は、「烏帽子山最福寺」のHPをご覧になられたい。 ちなみに、彼は「真言密教修験の第十八代目の相承者・薩摩の国修験五百年の傳燈法師」であるという。 不思議な縁とでも言うべきか、池口は塩見孝也などによる日本での田宮高麿の告別式でお経を上げたそうだ。塩見は池口が三無事件に連座して獄中にあったことから、入獄の同士という連帯感を持っているのであろうか。 2006年 12月 11日には、塩見は池口との交流について述べているのでそれも参照されたい。 |
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| 07年10月2日朝日新聞から。政府は7年前の99年には、後に共謀罪提案の根拠とした国際組織犯罪条約について、起草の段階で「共謀罪は日本の法原則になじまない」と国際会議の場面で主張していた。つまりは、共謀罪を作らないでの批准を基本路線としていたのだった。それが一転して条約批准のために共謀罪が必要とするのは、何かが変化したのだ。この7年間の政治過程の激変を示して余りあることである。 |
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| 同書については、「ジャノバのコロンボ」のブログを参照されたい。 |
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2008年3月 7日 (金)
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「修羅のペン」、副題「ブラックの帝王犯科帳」は前述した国会タイムス社主でグローバル・レインバー・シップを主催する五味武の本。 五味の本名は「五十嵐武」で、福島県出身・日大卒業の79歳。 福田派の清和会に近いことは本人も認めている。 それはともかくとして、政界の暗部の情報をキャッチして、その情報をもとに各派や各政界人と渡り合うというのは、当然、そうだろうなと、納得できる。五味は、河野一郎に私淑したのをはじめとして、福田と接近した。ただし、福田とどういう経緯で親しくなったかは述べられていない。 内容は、田中金脈のルーツが高橋是人の告発分にあること。三木内閣時代の幹事長に中曽根康弘がなったときにそれを批判したこと。笹川の競艇利権を批判し、生命の危険を感じたが(ここには往年の女優・丹下キヨ子が介在する)後に笹川の子息とは仲良くなったこと。三越の岡田・竹久問題に三越の内部からの誘いがあり介入したこと。投資ジャーナルの中江滋樹が衆院議長の安井健を利用したことをつぶしたこと。中川一郎と親しく、その秘書の鈴木宗男の力を見たこと。鈴木は石原慎太郎を五味の前に連れてきて、「慎太郎あやまれ」と怒鳴ったという逸話が紹介されている。それらの事件には必ずといっていいほど裏世界の人々が登場し、五味と事件処理について交渉している。 このこともあってか、会津小鉄の高山とは親しいらしい。 また、クルド難民救援資金には、高山や関西の渡辺・宅見なども協力したということなどが書かれている。 ちなみに、東急電鉄株をめぐる騒動にも稲川の石井とともに一枚かんでいるという。 |
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ダイナシティは05年2月に「ジュリアーニ・パートナーズ/セイジ・キャピタル・グローバルとのパートナーシップ契約を締結。」12月には「ライブドアグループとの資本・事業提携に関する基本合意。」した。 「ジュリアーニ・パートナーズは前ニューヨーク市長であるジュリアーニ氏が経営する、コンサルティングと戦略的事業投資をおこなうリーディング企業です。また、セイジ・キャピタル・グロースは戦略的なプライベイトエクイティファンドを管理する大手投資会社です。先日、両社(G/S)は日本企業への事業投資とコンサルティングを統括するための事業提携をいたしました。 」http://www.garage.co.jp/index.htmlとデジタルガレージのHPでは説明している。 単なるビジネスの関係でありそれ以上のことはないかもしれないが、ダイナシティ・ライブドアーとジュリアーニが結びつき、そして慧光塾を媒介として安倍が登場する。 |
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岩波新書、入江曜子著「溥儀」について。 2006年は愛親覚羅溥儀生誕100年にあたるらしい。 新しく分かったことをいくつか列挙しておこう。 1、皇帝の一族は、一族の代によって名前の最初の一字が同じらしい。例えば、溥儀の弟は溥傑であることは知られていることだが、ヌルハチから数えて10代目に当たる一族は、従兄弟が溥佳というようにである。溥儀の上の代は皆「載」である。 2、著者は「紫禁城の黄昏」を書いたジョンストンにならって父性の喪失による過度な父性の要求ということに溥儀の性格を収斂させているが、その結果、満州国建国過程からの過度な昭和天皇への尊敬と依存、解放後、撫順戦犯収容所以降の毛沢東・周恩来への過度の尊敬の念などを指摘している。でも、多かれ少なかれ、人は多くの複雑な性格を抱え込み、反省する時点でもある真摯な反省の姿勢を演じて見せるものなのだから、溥儀の性格を批判的にあまり見てもしょうがないような感じがする。 3、ところでそれとも関係して毛沢東の土俗性を示す逸話は面白い。毛は溥儀を称して小心で権力に弱いと言うのは、自分がそのような権威を持って溥儀に臨み、そして屈服を事実上強制したからに違いないのになんたる言い草かと思わざるを得ない。彼は、貧しいコウリャンの食事を高位の者に食べさせることで屈服の踏絵とし、さらに権力欲を満足させたのであった。 4、一貫した周恩来の溥儀への寛容は、党の反動分子の改心の典型例・共産党の優位性の立証のプロパガンダからのものだとだけは言えないようなものではないか。それは、日本人戦犯への配慮にもよく示されている。この寛容は劉少奇の「整風文献」と同様な民主主義的寛容とは言えないか? 5、溥傑の妻の嵯峨浩が中国に戦後帰国するとき、溥儀一族のほとんどは反対したそうだ。その理由は、浩の封建的特権意識を忌避してだそうだ。それを周恩来は説得して帰国の運びとなったようだ。だが、著者は相変らずの浩の特権意識を指摘するが、国交も無くまずしい中国に溥傑を頼って帰国しようとする姿勢はその特権意識を上回るやさしさがあったのではないかと推察すべきなのではないかと思う。 |
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朝日文庫に所収されている本書は、05年4月から朝日新聞に連載されたものを集めたものだ。 第1章「韓流の源流」について とくに、僕が卒業してから清や池内・後村などと始めた朝鮮問題研究会(「流言蜚語」という会報を出していたが、やはり中心は清だった)とのかかわりでTK生著書は必読文献だった。池見観がTK生だったということは後で分かったことだ。その池は韓国の日本文化の開放政策(韓国では日本の歌も小説も映画も発禁だったのだった)を担う有力な政府関係者として活躍していたのだった。池は現在の日韓文化交流の担い手であり続けている。ところで、後の大統領で韓民統を率いた金大中と池を引き合わせたのは岩波社長の安江であった。金は、僕らがよく会議をしたトモンがあるトモンビルの右横のビルのマンションに潜んでいたのだった。そう考えると韓国の現在と歴史は僕らの歴史の中にリアリティを持って存在しているのだった。 第2章「ベトナムの戦場から」について。戦場カメラマンと戦場ジャーナリズムの源流としてのベトナムという位置づけからカメラマンなどの人のつながりを述べたもの。ここで、岡村昭彦の僕らの世代への影響力を思い出す。それはカメラマンたちにとっても同じことだ。岡村を通してベトナム戦争を知った人々は多いのだ。ちなみに、生前の岡村を早稲田の古本屋で見た事がある。インド大使館の向かいの古本屋だった。当たり前の話だが、ごく普通の太った中年だった。それはともかくとして、93年のニューヨークタイムズにある写真が載った。飢えて死の直前の幼児が頭を垂れて崩れ落ちようとしている、それを真後ろからハゲタカが狙っているという構図のものだ。写真を撮る以前になぜ助けないのか、との猛烈な批判を呼び起こしたものだ。それを写したケビン・カーターはピューリッアー賞を受賞した3ヵ月後に謎の自殺をした。 暖かい部屋で美味しい食事を取りながら、なぜその幼児を助けないのか、という批判はかくも安易に繰り出されるものだ。問題は、カメラマンの側にも個人的功名心があったとしても、そこに写し取られる厳然たる悲しい現実があるということを一義的に考えるべきだということだ。それをまずは出発点に据えるという心構えが必要なのだ。しかし、そのようになぜまずは助けないのだ、という批判をする者は、その批判する当の本人が、なぜその悲惨な事実を知らなかったのか、そしてなぜに批判をする今現在にその幼児を含む現実の救済に参加していないのかとまずは自問すべきなのだ。自分が現実に助けられないもどかしさを、写真として現実を切り取ったカメラマンへの批判を行うことで慰めてはいけない。 いずれにしても、この僕は岡村昭彦にも開高健にも沢田教一にもなれなかったが、彼らが、僕や僕らをベトナム反戦と社会の不正義の告発者への道行きへと誘った力の一つであったということは事実なのだ。その点でも僕や僕らは彼らと共に時代を生きたのだった。 でもこの僕は、今はイラクでの毎日の死にもスーダンの死にも迫りくるモガディシオの死にも、あるいは、毎年3万人の日本人の死にもなにも出来なく、またしてもいなく、傍観者であり続けている。 第3章は「『満州』の遺産」だ。ここでは棄民のことが重くのしかかってくる。その場合、満州で3スケとして辣腕を振るったアベチャンの尊敬する岸が首相になって2年後の59年に、「海外からの未帰還者に戦時死亡宣告をした」(松岡満寿雄氏言)と言う事実は忘れるべきではない。満州=中国東北部に多くの幼児、老人、子供たち、夫人という弱い人々が死の逃避行の中で死亡し、また置き去りにされたのだったが、たとえ彼らが中国で生きていても死亡したと戸籍上はみなすということだった。つまりは、残留孤児は岸によって2度目の棄民となったのだった。一度目は守ってくれるはずの関東軍の我先にの逃亡で捨てられ、2度目は以前は彼らの上に君臨していた岸によって捨てられたのだった。 |
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